小説を読むもうひとつの楽しみ
私は昔から本を読むのは好きだった。単純にストーリーに没頭するのが楽しかっただけでなく、新しい言葉を覚えるのが好きだったのだ。けれども、大人になって本を読む機会が減ってからは、しばらくその楽しさを忘れていたと思う。
今日は以前も読んだ山田正紀の『イノセンス』を読み返している。最初に読んだ時とは違うアプローチで読んでいる。つまり、普段聞き慣れない単語を軽く読み流さずに、いちいち辞書をひいて調べながら読んでいるのである。
これがとても楽しいのである。物語を追う楽しさと、語彙が増える楽しさの二重奏とでも言えば良いか。統合失調症で非常に限定された意識レベルに落ちてしまっていたので、これはリハビリの意味もある。自分の中の語彙が増えると、意識も拡大するような気がするのである。
今日は雨
今日は朝から冷たい雨が降っている。しかし、雨という奴は、どうしてこう、無条件に人をうら寂しい気持ちにさせるのか。ただ単に水滴が空から落ちてくるだけの事ではないか。
だが、砂漠地帯に住む人にとってはどうだろうか?「恵みの雨」という言葉が有るように、もしかしたら雨は喜ぶべきものかもしれない。だとしたら、何故私は雨が降ると悲しい気持ちになるのか?
子供の頃楽しみにしていたイベントが雨で中止になり、残念な気持ちを味わったからだろうか?いや、確かに残念だったが、悲しみとは違う感情だった。
思うに、映画や小説などで、人間の悲しみを表す表現としてよく雨が降るシーンが使われていたからだ。それを繰り返し見たり読んだりしているうちに、
「雨=悲しい」
という図式が刷り込まれたのである。私のオリジナルの感情ではないのだ。一体私に真の意味でオリジナルな感情など有るのだろうか?全ては、
「人間とは、こういう時はこういう感情を持って然るべき」
という刷り込みではないのか?もしそうなのだとしたら、子供の頃から触れる本や大人など、感情の刷り込みを行うものの選別は重要である。それが子供と関わる者の責任なのだろう。
自称アーティストと言う老婆
ある暑い日の事。散歩の途中でスーパーに寄り、喫煙所で一服していると、一人の老婆が話しかけてきた。白髪混じりの頭に小柄な身体で、その見た目にそぐわない少女じみたスカートを履いていた。
「私はアーティストなの」
と、彼女は切り出した。聞けば、夫亡き後孫と暮らしているのだが、地元で英語教室をやっていると言う。
「これからの時代は英語が必要よ」
と、随分昔から言われ続けている事を言う。
「教室に通っている子で、貧乏で月謝が払えない子がいるけど、容赦はしないわ」
「私はアーティストなの。ドストエフスキーもアーティストだった」
話は支離滅裂に続き、私はただ黙って聞いていた。こんな話にどう受け答えすれば良いのか分からなかった。ただ、この老婆が、夫の亡き後かなり金銭的に苦労しただろう事、そのせいで心も病んでしまったのだろう事は推察できた。何より悲しかったのは、私には彼女に出来ることが、黙って話を聞くしか無い、という事だった。
白い馬の記憶
幼稚園生位の頃。両親に連れられて、とある牧場に行った。牧場には牛が沢山いたが、少し離れた所に馬もいて、人参を食べさせるイベントをやっていた。私も馬に人参をやる事になり、恐る恐る白い馬に近付いた。幼い私にはその馬は見上げるほど大きくて、恐ろしい顔をしており、正直怖かった。係りの人が、私の怯えをみてとり、
「馬は草食動物で、草しか食べないから大丈夫だよ」
と、私を励ましてくれた。私は、大人が大丈夫だよと言うのだから大丈夫だろう、と思い、人参を握りしめた手を目一杯上へ上げた。すると、馬はヌボーッと大きな顔を近付けて、思い切り
「パクッ」
と、私の手ごと、人参に噛みついた。それほど痛くはなかったが、私はショックだった。
「嘘つき」
と、心の中で呟いた。初めて本物の馬を見たのはこの時なのだが、不思議とトラウマにはならず、馬は大好きである。
守護天使かも知れない
20代の頃の話である。私は毎日ぼろアパートから会社に通い、イラストを描く仕事に追われていた。2、3日徹夜などは当たり前で、食事はコンビニ弁当、アパートへは寝る為だけに帰る、というキツイ生活だった。
当然の事ながら、身体をしょっちゅう壊した。ある時、かなり重い風邪を引き、熱を出してアパートのソファーベッドで寝込んでいた。その時不思議な夢を見た。
私は戦争で酷く荒廃した街に居た。鉛色の空の下、建ち並ぶビルはすすけた色をしている。窓ガラスが割れて、その破片が道路に散らばっていた。道路にはゴミが散乱しており、酷い臭いを放っている。そのごみ溜めの中に蠢く生き物がいた。雌犬である。褐色の毛皮の殆どが、黒っぽく汚れていた。彼女は横たわり、腹を波立たせて荒い息をしている。その乳首に数頭の仔犬がむしゃぶりついて、互いを前足で押し退けながら、乳を吸っていた。その中の一頭が、私だった。
私は何も考えずに、夢中で乳を飲んでいた。
すると、どこからか銃声が聞こえる。また戦闘が始まったのだ。音は段々近付いてきて、とうとう私たちの頭上を銃弾が飛び交い始めた。私は、
「これはマズイ。逃げなくては!」
と、人間の姿になり、勢い向かいのビルの中に駆け込んだ。ビルの中は荒れ果てており、無人だった。見渡すと、吹き抜けのホールから上へ向かって螺旋階段が伸びている。とりあえず高いところへ上ろう、と階段を登り始めた。
私はただ黙々と登り続けた。階段は大人が一人入れるくらいの狭い幅で、気が遠くなる程上空へ続いていた。もうどのくらい登って来たのかも分からない。脚がガクガクしはじめ、
「もう駄目。これ以上は無理」
と座り込んだ。すると突然、何処からともなく小さな男の子が現れて、
「大丈夫。僕が手伝ってあげるから」
と、私のお尻を押すのである。男の子は白い肌に輝く金髪で、緑色の眼をしていた。私は不思議なことに、
「あなたは誰?」
とか、
「何処から現れたの?」
とは思わなかった。
「よし、そういう事なら頑張ってみるか」
と、再び階段を登り始めた。男の子は始めは私のお尻を押していたが、途中から私の脚が少し楽になって来たので、手を繋いで男の子が前を行き、私が後を付いていく形で上った。
とうとう屋上に出た。パッと明るい光が目に飛び込んだ。辺り一面真っ白な雲が絨毯の様に敷き詰められており、何処までも続いていた。上を見上げると、抜けるような青い空が広がって、真ん中に銀色の太陽が輝いている。
「そうか、天上に着いたんだね」
と、嬉しくなったところで目が覚めた。
目が覚めたら、凄い汗をかいており、熱が下がっていた。回復夢とかいうやつだろうが、私はあの男の子は守護天使だと思っている。それにしても、どうして最初が仔犬なのか?(笑)まあ、とても人間らしい生活とは言えなかったからなー。
『ラマナ・マハルシとの対話 第3巻』ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア 記録
インドの聖者、ラマナ・マハルシとの対話集である。何度も読み返しているのだが、ラマナの言葉の中に、
「真我を見つけられないのは、貴方が自分を肉体だと思っているからだ」
というような言葉が有るのだが、最初はよく分からなかった。何故なら、私は小さい頃から常に肉体の不調に悩まされて来たからであり、自分も、また親も、常に私の肉体的なことに意識を向けてきたからである。
肉体の具合が悪ければ、それを『肉体的に』何とか解決しよう、というのが普通の意識だと思う。また、性意識は常に自分や他人の肉体を意識している。性欲が有れば、それを『肉体的な』方法で解消しようとするだろう。だが、最近になって、大分肉体の調子が良くなって来ると、確かに肉体の事は忘れているのである。
もちろん、適度な食事や睡眠は必要であるが、それ以外の肉体への意識、セックスしたい、痩せたい、太りたい、といった欲望が減ってきたのである。
この、肉体の事を忘れていられる感覚というのは、とても解放感がある。とはいっても、私は聖者などではなく、ただの凡人なので、具合が悪くなれば途端に元に戻ってしまうのだろうが、今はこの解放感を楽しんでいる。
- 作者: ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア,福間巌
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